日本仏教の曙
佛教が日本に伝来したのは、六世紀のなかば欽明天皇十三年(五五二)といわれている。今からおよそ千四百五十余年も前の飛鳥以前のことで、当時の日本は有力な氏族が世の中を支配していた時代である。この外来の思想文化を受け入れるか、あるいは排斥をするかの論議が氏族の間で高まり、佛教擁護派の蘇我氏に、佛教を排斥しようとして対立した物部氏がやぶれ、佛教が日本に定着することになったのである。
六世紀末から七世紀はじめの飛鳥時代は、日本ではじめて佛教文化が花開いた時代である。仏教文化の根幹をなすものは寺院である。ではわが国で最初の寺は、何寺であろうか。百済から献上された仏像を、蘇我稲目が大和向原の家に安置して寺としたのが最初であると伝えられている。聖徳太子が推古天皇の摂政になり、中央集権を目指して冠位十二階の制度をつくり、憲法十七条を制定することにより、中国や朝鮮の佛教文化の影響のもとに数多くの寺院が建立されることになる。
飛鳥文化最高の遺産は、七世紀のはじめに聖徳太子によって建てられたと
伝えられる法隆寺で、金堂の釈迦三尊像をはじめ多くのすぐれた仏像や工芸品が残されている。しかし佛教の教説や内容を理解できた人はそう多くはなく、むしろ好奇心をもって異国の文化を受け入れていたと思われる。
次の奈良時代には東大寺をはじめ諸国に国分寺・国分尼寺が建てられる。
そして奈良の六宗が誕生するのである。法相・三論・倶舎・成実・華厳・律のいわゆる南都六宗である。しかしこの六宗は、こんにちの各宗派の感覚とは違い、むしろ学問としてとらえる学派の姿であった。法相宗(唯識宗ともいう)は、藤原氏の氏寺である興福寺を本山として長く栄えた。三論宗はインドの大乗佛教の学者である竜樹の論文を研究する学派である。倶舎宗と成実宗の寺ははじめから存在しない。華厳宗は東大寺が本山で、所依の経典は華厳経である。律宗は佛教の戒律を中心とするもので、唐僧鑑真がわが国に帰化して、東大寺に戒壇を設け、現在の唐招提寺を建て律宗の本山として今日に至っている。寺院の形式としては、いわゆる七堂伽藍が具えられた。しかしこの時代、佛教に馴染める人は武家貴族といった上流階級の人々に限られていた。貴族仏教といわれるゆえんである。
この気風から抜け出て一般大衆に向きを変え、実践の徳目として佛教を説くことになったのが、平安時代である。この時代には信仰集団としての二宗が誕生する。すなわち天台宗と真言宗である。この二宗はともに山の上を立教開宗の根本道場としている。山は清浄な所であり教法を宣布する最も相応しい場所として選んだのである。次回は真言宗について話してみましょう。
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