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蓮福寺縁起
當山は、稲葉山阿弥陀院蓮福寺と号し、奈良時代の人皇四十五代聖武天皇の御代、天平三年に、行基菩薩が東国に巡錫の際、熊野権現の御啓示により阿弥陀如来を敬刻開眼して当寺に安置して供養したのが開創である。さらに、弘法大師が、大同年間、稲葉の地に来られて熊野三社権現を勧請され梛の木を植えられ、大きな塚をお作りになり六万部の教典を読誦し開眼供養された。(合併した稲葉・西光院裏)
南北朝時代の1375年【天授(南朝)・永和(北朝)元年】後円融天皇の御代、千葉六党の一人、東六郎胤頼の菩提寺として多古町染井に名僧吽日上人が醍醐三宝院流を伝授し開山した。(正式に天授元年[南朝]・永和元年[北朝]を多古での蓮福寺の開山年としている。)八代弁賀上人が紀州根来寺よりの真言宗のこの地域の本寺としての法流を受け継ぎ伽藍復興の基盤を作る。以後、周辺17ケ村・25ケ寺の本寺となる。現在の仁王尊は弁賀上人が開眼供養したと伝えられている。
時は戦国時代、山武地域も例外なく群雄割拠の戦乱の装いにて、この地には、松尾町山室から移って来られた、北条氏の系列の山室飛騨守が飯櫃の山に飯櫃城を築き周辺諸国と対峙していた。1555年【弘治元年】に山室氏が多古の牛尾氏との合戦に勝利すると同時に當寺を多古町染井より飯櫃城内に移す。
1590年【天正18年】北条方の山室氏は豊臣秀吉の配下の後の信州高遠城主保科弾正に激戦の末敗れ飯櫃城は落城する。その際、蓮福寺も諸堂伽藍ことごとく焼失することとなる。その時の住職の秀授法師は、勇猛果敢な僧にして、大長刀を手に敵に向かい、伽藍が燃えさかる中、山室氏の正室のお藤の方と嫡男で梅千代丸山室勝延を隣村の稲葉の西光院に逃がしたのであった。梅千代丸勝延は西光院に身を隠し、1591年【天正19年】山室一族の菩提を弔うために35歳の時に出家し法名を照圓とした。1598年【慶長三年】先般の秀授法師は、焼失した法流を茨城県八郷町小幡の報恩寺〔後に宝薗寺と改名〕より醍醐三宝院流を再傅し、城の弓練習場に照圓法師(中興八代)の為に寺を再興して中興七代開山と呼ばれるようになる。しかし、本堂など仮堂で本尊も稲葉の西光院(後に廃寺)の阿弥陀如来を勧請した状況であった。当初多古町染井に建立された當寺が何故、山号が稲葉山なのかは合併した西光院の阿弥陀如来が稲葉の地より遷座されたからと伝えられている。
1657年【明暦三年】に今ある現在の地に木食円雅(賀)上人によって伽藍が整備された。平成11年に、不動明王を修復したが、胎内に【延宝6年】〔1678年〕作と銘文があり、その頃が當寺の伽藍が復興整備されていた時期と見られる。それを裏付ける事として、山号額に覚眼大僧正直筆の『稲葉山』の揮毫が現存している、やはり、この伽藍が整備されていた時期の延宝〜元禄にかけて活躍された高僧であり、智山の第十一世の能化になられた方でもある事から同様にこの事が裏付けられる。
明治以降、廃仏毀釈等で衰退をたどったが、大正時代に先々代の保田弘心が末寺菱田薬王寺住職より中興第二十三世として本寺に晋山して廃退した伽藍の復興に心血を注いで勤め、その志を先代中興第二十四世保田親精が引継ぎ、本堂改修復興・庫裏建設・境内庭園整備等着々と往時の寺の面目を整えた。平成20年4月25日世寿80歳にて遷化し、同年5月19日その法燈を保田研精が引き継ぎ中興第二十五世として晋山した。
現在真言宗智山派に所属、現存十ケ寺の本寺として、地域の中心寺院として新義真言の教宣拡大に日夜努力を重ねている。 |
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